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諏訪大社 上社の家 <販売済>
2020.03.09
【民家再生】
画像をクリックし、拡大画像をご覧いただけます。
長野県 諏訪大社の前宮から本宮へと向かう、通称「御柱(おんばしら)街道」の途中に、旧杖突峠の道標があります。
その道標がある角地に、昔、旅館茶屋を営んだ屋号「森田屋」さんの庭園と蔵が今も残っています。この「森田屋」さん、実はかつて諏訪大社の神職の長である神長官家、守矢氏の分家にあたる家系です。
今を遡ること9年前の平成22年8月に、庭園と、敷地内に残る石碑(守矢翁頌徳碑)、そして蔵を再生することを条件に、田空間工作所が譲り受けました。
まず取りかかったのは、庭園の手入れ、井戸の復元を時間を掛けて少しずつ行ってきました。
そして、皆さんにご覧いただけるように、石碑を庭から御柱街道沿いに移して設置しました。
ひとまずは、庭の植栽と石積み等で、諏訪大社界隈を散策される皆さんに、ちょっと興味を持っていただける空間に
なったのではないかと自負しています!
そして今年令和元年に、蔵の再生を始めました。
当初8月末の完成予定でしたが、外構にも再び手を加え11月24日に完成しました。
少し暗い蔵の中で、ゆっくり庭を見ながらお茶をいただく。
この環境とロケーションを利用して、小住宅や別荘はもちろん、店舗をお考えの方にお譲りできればと思っています。
店舗でも住宅でも落ち着く空間になると思います。
随時見学できますので、是非ご一報ください。
【追記】
①旧杖突峠について
古くは延暦20年(783年)坂上田村麿東征の時、この峠道を通って諏訪大社入りをしたと言われています。
また、天正10年3月(1582年)武田征伐を終えた織田信長一行が、峠道を通って上社の隣にある法華寺に入場し、
14日間滞在しました。その滞在中に征伐の論功業賞を行った際、光秀の発言に激怒した信長は
名だたる大勢の武将の前で明智光秀を殴打し、これが2か月後に起こる「本能寺の変」の原因となった
と言われています。
②石碑について 守矢弥平治翁頌徳碑(大正4年12月3日除幕)
撰文:小川平吉(元衆議院議員) 額・書:中村不折(洋画家・書道家) 石工:北原寿雄(現在(有)石柳北原)
③母屋について
道路拡張につき、今は解体されてありませんが、街道に面して母屋がありました。
その母屋で、昭和元年申年の御柱祭では、時の犬飼毅(元総理大臣)・小川平吉・守矢一太郎(守矢家当主)
が一同に会し御柱を観覧しました。(※ 「家記考」守矢日出男 著 の記録より)
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長野県 諏訪大社の前宮から本宮へと向かう、通称「御柱(おんばしら)街道」の途中に、旧杖突峠の道標があります。
その道標がある角地に、昔、旅館茶屋を営んだ屋号「森田屋」さんの庭園と蔵が今も残っています。この「森田屋」さん、実はかつて諏訪大社の神職の長である神長官家、守矢氏の分家にあたる家系です。
今を遡ること9年前の平成22年8月に、庭園と、敷地内に残る石碑(守矢翁頌徳碑)、そして蔵を再生することを条件に、田空間工作所が譲り受けました。
まず取りかかったのは、庭園の手入れ、井戸の復元を時間を掛けて少しずつ行ってきました。
そして、皆さんにご覧いただけるように、石碑を庭から御柱街道沿いに移して設置しました。
ひとまずは、庭の植栽と石積み等で、諏訪大社界隈を散策される皆さんに、ちょっと興味を持っていただける空間に
なったのではないかと自負しています!
そして今年令和元年に、蔵の再生を始めました。
当初8月末の完成予定でしたが、外構にも再び手を加え11月24日に完成しました。
少し暗い蔵の中で、ゆっくり庭を見ながらお茶をいただく。
この環境とロケーションを利用して、小住宅や別荘はもちろん、店舗をお考えの方にお譲りできればと思っています。
店舗でも住宅でも落ち着く空間になると思います。
随時見学できますので、是非ご一報ください。
【追記】
①旧杖突峠について
古くは延暦20年(783年)坂上田村麿東征の時、この峠道を通って諏訪大社入りをしたと言われています。
また、天正10年3月(1582年)武田征伐を終えた織田信長一行が、峠道を通って上社の隣にある法華寺に入場し、
14日間滞在しました。その滞在中に征伐の論功業賞を行った際、光秀の発言に激怒した信長は
名だたる大勢の武将の前で明智光秀を殴打し、これが2か月後に起こる「本能寺の変」の原因となった
と言われています。
②石碑について 守矢弥平治翁頌徳碑(大正4年12月3日除幕)
撰文:小川平吉(元衆議院議員) 額・書:中村不折(洋画家・書道家) 石工:北原寿雄(現在(有)石柳北原)
③母屋について
道路拡張につき、今は解体されてありませんが、街道に面して母屋がありました。
その母屋で、昭和元年申年の御柱祭では、時の犬飼毅(元総理大臣)・小川平吉・守矢一太郎(守矢家当主)
が一同に会し御柱を観覧しました。(※ 「家記考」守矢日出男 著 の記録より)